なぜ「森が見えない日に」なのか

追い詰められた心は木しか見えなくなる——このタイトルは、森が見えない日に少し引いた場所から森の話をすることをイメージして名付けました

「木を見て森を見ず」ということわざ

由来はことわざの「木を見て森を見ず」です。目の前の一本にとらわれて、全体が見えなくなることを言います。

精神科で働いていると、このことわざが単なる比喩ではないと感じる場面があります。うつ状態のとき、強いストレスにさらされているとき、人の視野は実際に狭くなります。選択肢がいくつもあるはずなのに、目の前のひとつしか見えなくなる。追い詰められた心の状態について、心理学ではこれを「心理的視野狭窄」と呼びます。死にたいほどつらい、という状態は、多くの場合「森が見えなくなっている」状態です。
私自身、そのような状態に陥ってしまったことが多々ありました。そんなとき、学生時代の恩師の言葉が思い出されます。それが、「人生万事塞翁が馬」という言葉です。

座右の銘との対

「人間万事塞翁が馬」という言葉ですが、今では私の座右の銘となっています。いいことも悪いことも、あとになってみないと分からない——時間軸を引いて見る、という知恵です。

「木を見て森を見ず」は空間の話、「塞翁が馬」は時間の話。方向は違いますが、どちらも同じことを言っています。渦中にいるときの視野は、当てにならない。だから少し引いて見る。このブログの通奏低音は、この考え方をめざしています。

英語タイトル「For the Trees」

サブタイトルの For the Trees は、英語の同じ慣用句 “can’t see the forest for the trees“(木ばかり見て森が見えない)の後半だけを切り出したものです。

ところで、ことわざの「木」は本来、目の前の事柄のことです。でもこのブログでは、もうひとつ読み替えをしています。人は誰でも、森の中に立つ一本の木です。渦中にいるというのは、森を外から眺めているのではなく、自分がその木になっているということ。自分が木だから、森は見えない。

だから for the trees には「木々のために」という読みも重ねました。森が見えなくなっている一本一本の木のために書く、という意味です。

アイコンも同じ発想で作っています。暗い森の中で、はっきり見えている木は一本だけ。でも目を凝らすと、奥にかすかに他の木の気配がある——見えないだけで、森はそこにある、という絵です。

このブログでやりたいこと

診察室での仕事は、一本一本の木と向き合うことです。それはそれとして、このブログでは少し引いた場所から、森の話をします。睡眠の話、お金や制度の話、論文の話。どれも「目の前のことしか見えなくなっているときに、視野の外側にあるもの」の話です。

まとめ

森が見えない日は、誰にでもあります。そういう日にたまたま通りかかった人が、少しだけ視野の広がる何かを持ち帰れる場所にしたい——それがこの名前に込めた意味です。


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