「生活保護だけは、絶対に嫌です」
診察室でこの言葉を聞くことがあります。そのあとに続くのは、たいてい具体的な事情です。もう半年働けていない。貯金が三十万を切った。薬代を減らしたくて、二週間の処方を四週間に延ばしてもらえないかと考えている。それでも生活保護は嫌だ、と言う。
理由を尋ねると、制度の中身の話はほとんど出てきません。出てくるのは「家族に連絡がいくんでしょう」「家も車も全部手放さないといけないんでしょう」といった、輪郭のぼやけたイメージです。そしてそのイメージの多くは、公式の説明を読むと事実とずれています。
この記事は2026年8月時点の情報にもとづく、一般的な制度の説明です。あなたが受給できるかどうかの判断はここではできません。それは住所地の福祉事務所の領分です。ここで書けるのは、判断を求めに行く前に知っておくと損をしない事実だけです。
本文
何のための制度か
生活保護法の第1条には、こう書かれています。「この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする」。
目的が二つ並んでいる点に注目してください。最低限度の生活の保障と、自立の助長です。立て直すための土台を用意することが、目的として書き込まれています。続く第2条は「すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護を、無差別平等に受けることができる」と定めています。要件を満たすかどうかだけが問われる、という設計です。
保護費は一種類ではなく、生活・住宅・教育・医療・介護・出産・生業・葬祭の8つの扶助に分かれています。家賃には住宅扶助、医療費には医療扶助、というように費目ごとに用意されています。
医療費が、原則かからなくなる
精神科に通う人にとって、実務上いちばん大きいのは医療扶助だと思います。
厚生労働省の説明では、医療扶助は「費用は直接医療機関へ支払(本人負担なし)」とされています。窓口でいったん払って後から戻ってくるのではなく、はじめから本人が払わない仕組みです。介護サービスの費用(介護扶助)も同じ扱いです。
医療扶助の範囲は生活保護法第15条に列挙されていて、診察、薬剤や治療材料、医学的処置・手術その他の治療、居宅における療養上の管理と看護、入院と看護、移送が含まれます。精神科の外来通院も、処方される薬も、この範囲の中の話です。給付は、指定を受けた医療機関に委託する形で行われます。
治療費が理由で受診間隔を空けている、薬を自己判断で減らしている——そういう状態は、医学的には再発のリスクを上げるだけで、何も得をしていません。お金の問題が治療の問題に直結する典型がここです。(※公開後にリンク挿入:金の悩みは健康問題である)
「全部手放さないと無理」ではない
生活保護には補足性の原理があります。法第4条で、利用し得る資産・能力その他あらゆるものを最低限度の生活の維持のために活用することが要件とされ、扶養義務者の扶養は保護に優先するとされています。使えるものを使うのが先、というのは事実です。
ただし、この「先」という言葉が独り歩きして、いくつもの誤解を生んでいます。厚生労働省は「生活保護を申請したい方へ」というページで、よくある誤解を名指しで否定しています(2026年8月時点)。
- 必要な書類が揃っていなくても申請はできます
- 居住用の持ち家については、保有が認められる場合があります
- 通勤用の自動車を持ちながら求職している場合に、処分しないまま保護を受けることができる場合があります
また、働いていれば受けられない、というのも誤解です。就労収入があっても、収入と資産が最低生活費に満たなければ、その差額が保護費として支給されます。
最低生活費は住む地域と世帯構成で変わります。生活扶助基準額の例(令和8年4月1日現在)では、68歳の単身世帯で東京都区部等が月77,980円、地方郡部等が月68,950円。これに住宅扶助や医療扶助が必要に応じて加わります。自分の場合はいくらか、という計算は福祉事務所でしかできません。
家族に連絡されるのが怖い、という話
相談をためらう理由として、いちばんよく挙がるのが扶養照会です。親やきょうだいに連絡がいくくらいなら申請しない、という人は少なくありません。
まず、厚生労働省は「同居していない親族に相談してからでないと申請できない、ということはありません」と明記しています。親族の同意は申請の前提ではありません。
そのうえで、照会の運用は2021年(令和3年)3月1日から見直されています。厚生労働省の資料には、扶養照会の説明に続けて「『扶養義務の履行が期待できない者』と判断された場合には、扶養照会を行わない場合があります」と書かれています。仙台市の公式説明によれば、この「期待できない者」には、生活保護受給者や長期入院患者、おおむね70歳以上の高齢者等のほか、借金を重ねている・相続をめぐり対立している・縁が切られている・10年程度音信不通であるといった著しい関係不良の場合、そして過去に暴力や虐待の経緯があり扶養を求めることで明らかに本人の自立を阻害すると認められる場合が含まれます。2026年4月1日施行予定の生活保護実施要領等(厚生労働省。公表資料には「未定稿」と付されています)にも、同趣旨の取扱いが示されています。
ここは断定を避けたい部分です。運用は通知の改正で変わりうるもので、実際の判断は福祉事務所が行います。ただ「絶対に全員に連絡がいく」というのは、少なくとも2026年8月時点の公式の説明とは合いません。事情があるなら、窓口でその事情を話すことができます。
「申請は国民の権利です」
厚生労働省の資料には、こういう一文があります。
生活保護の申請は国民の権利です。生活保護を必要とする可能性はどなたにもあるものですので、ためらわずに自治体までご相談ください。
行政が自分の制度についてここまで踏み込んで書くのは、珍しいことだと思います。裏を返せば、ためらう人が実際に多いという認識があるのでしょう。
受給が始まったあとの権利も法に書かれています。要件を満たす限り無差別平等に受けられること、正当な理由がなければ決定された保護を不利益に変更されないこと、保護費に税金がかからないこと、保護費を受ける権利を差し押さえられないこと。一方で、資産や能力の活用、収入の申告、福祉事務所の指導・指示に従うことといった義務も定められています。権利と義務が両方書かれている、ふつうの制度です。
それでも申請が進まない背景として、研究の側からはスティグマが指摘されてきました。生活困窮者支援の利用者を調査した松岡(2022)は、制度にスティグマが伴えば「スティグマを恐れて、福祉サービス(制度)の申請を控えたり、忌避する場合もある」と整理し、その利用者にも“生活保護にまつわるスティグマ”の影響がみられたと報告しています。
なお「本来受けられる人のうち何割が受けているか」(捕捉率)については、いろいろな数字が流通しています。厚生労働省自身は、統計からは資産の評価額や扶養・稼働能力の有無が判らないため捕捉率を推計することはできない、という立場です。数字を強く断定する言説には、出どころを確かめる価値があります。
まとめ
- 生活保護は憲法25条の理念にもとづく制度で、最低限度の生活の保障と自立の助長の両方を目的として法に書かれています(2026年8月時点)
- 8つの扶助のうち医療扶助は「費用は直接医療機関へ支払(本人負担なし)」と厚生労働省が説明しており、精神科の通院や薬もこの範囲に含まれます
- 持ち家・自動車・就労収入があると必ず不可、というのは誤解です。書類が揃っていなくても申請はできる、と公式に明記されています
- 扶養照会は2021年3月から運用が見直されており、「扶養義務の履行が期待できない者」と判断されれば行われない場合があります。ただし運用は変わりうるもので、判断は福祉事務所が行います
- 受けられるかどうかの判断はここではできません。窓口は住所地を所管する福祉事務所の生活保護担当です(福祉事務所を設置していない町村では町村役場でも申請手続きができます)。申請から原則14日以内に回答されることになっています
死にたい気持ちがあるとき、お金の相談より先に話を聞いてもらえる窓口があります。厚生労働省のポータル「まもろうよ こころ」に、電話・SNSの相談先がまとまっています。
https://www.mhlw.go.jp/mamorouyokokoro/
